歌舞伎町の歴史
歌舞伎町がエンタメの街になったのは、戦後の事である。 歌舞伎町は戦前は、角筈(つのはず)という地名で、森と川がある住宅街だった。 1945年の空襲により、街は焼け野原になった。 戦後、復興計画が上がり、この地域は区画整理され、繁華街へと作り変えられる事となる。 ちなみに歌舞伎町は計画的に作り上げられた街の為、道路に大きな特徴がある。 T字路がいくつも組み合わさっている構成なのだが、突き当りまで行かないと左右の空間が見えないため、奥へと引き込まれる、という仕掛けが施されているのである。 1948年『歌舞伎町』という町名がつけられた。これは、歌舞伎劇場の建設が計画された為である。(しかし、歌舞伎劇場の建設は中止になった) 復興は進み、喫茶店、バー、スナック、映画館、スケートリンク、等、次々と娯楽施設が建てられ、1950年代には、街は若者が集まるエンタメの街となっていた。 1956年には『コマ劇場』が完成する。 この座席数2000を超える都内最大規模の劇場は、歌舞伎町のみならず、新宿のシンボルとなった。 コマ劇場は後に、ゴジラの頭が乗っている、新宿東宝ビルとなる。 尚、歌舞伎町が繁華街として成長するに従って、売春行為も横行する事となる。 これは、1958年に全面施行された『売春防止法』が関係している。 数100メートル離れた新宿二丁目は、特別に性風俗営業が認められている『赤線地帯』だったのだが、売春防止法によってそれも禁止され、性風俗関係者が歌舞伎町に流れてきたのだ。 渋谷や原宿も若者の街となっていき、歌舞伎町はサラリーマンの街という側面が強くなっていく。 1980年代には、性風俗が急増し、客引きや暴力団も問題となり、歌舞伎町は「危険な街」というイメージが根付いてしまう。 しかし、イメージ回復の為の努力もなされており、現在、歌舞伎町は世界有数の観光名所となっている。 [PR] ルポ歌舞伎町